2010/08/31

こころにぐっときたこと

ども、残暑がきびしいざんしょ。
ってことで、暑さでいろいろへばってます。
どもこんばんは、安井です。


アニメーション監督であり、漫画家でもあった、今敏(こんさとし)が亡くなった。
膵臓癌で48歳の若さだった。

アニメ映画「PERFECT BLUE」のインパクトは忘れられない。
「MEMORIES/彼女の想いで」の作品の人ということで観にいこうってなったとうろ覚え。
「MEMORIES/彼女の想いで」の世界観が好きだったからね。

梅田のテアトル梅田まで友達と観にいった。
「PERFECT BLUE」、アニメのすごさを実感できた作品だった。
アニメなんて子どものものってイメージを払拭したな。可能性を感じた。
「攻殻機動隊」を観た後に観たのもだいぶあったのかもしれない。

「千年女優」にしても「東京ゴッドファーザーズ」にしても「パプリカ」にしても、
世界観がすごく好きだ。キャラクターも。
平沢進との音楽との融合はすごい好きだったな。
ただ、ちょいとばかりストーリーの詰めが甘いなと思える作品ばかりでもあるけども、、、

なんだかんだと自分のアニメ・マンガ好きな人生にかなり影響を与えた人。
本当に残念。ありがとう。


最後に勝手に転記して悪いけども、彼の最後のブログの投稿を載せようと思う。
Webサイト「KON'S TONE」より2010年8月25日の記事「さようなら」
http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565


忘れもしない今年の5月18日。
武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。
「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」
妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。
普段から心底思ってはいた。
「いつ死んでも仕方ない」
とはいえあまりに突然だった。


確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2〜3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。
気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。


宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。
頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。
「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」
しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。
病状は確実に進行する日々だった。


一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。
だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、
「ちゃんと死ぬための用意」
にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。
その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。
もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。


手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。
後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。
「はぁ…やっと死ねる」
なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。
「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」
聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。
それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。


ということで早速腹はきまった。
私は自宅で死にたい。
周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。
妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。
あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。


妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。
寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。
「死ぬってのも悪くないかもな」
理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。
ただ、一つだけどうしても気に入らない。
「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」
と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。
「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」
こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。
死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。
死ぬのもツライよ。
断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。
ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。
私が暮らしているあの家へ。


少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。
自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。


さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。
ところが。
肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。
ありゃ?
ある意味、こう思った。
「死にそびれたか(笑)」
その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。
不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。
妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。


生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。
エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。
そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。
実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。
インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。


死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。
家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。


出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。
それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。
病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。
だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。
顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。
みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。
自分の生きた世界を愛している。
そう思えることそのものが幸せだ。


私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。
いま死について思うのはこういうこと。
「残念としかいいようがないな」
本当に。


しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。
両親とマッドハウス丸山さんだ。
今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。
遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。
許しを乞いたいような気持ちだった。


自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。
「すいません、こんな姿になってしまいました…」
丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。
感謝の気持ちでいっぱいになった。
怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。
勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。


一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。
映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。
何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。
もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。
スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。
けれど少しは理解もしてやって欲しい。
だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。
かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。


私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。
丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、
「大丈夫。なんとでもするから心配ない」
とのこと。
泣けた。
もう号泣。
これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。
今回も同じだ。私も進歩がない。
丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。
才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。
何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。
確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。
それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。
今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。


両親に告げるのは本当に切なかった。
本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。
「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」
突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。


それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。
一大決心をして親に会うことにした。
両親だって会いたがっていた。
しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。
私は本当に幸せだった。
ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。
私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。
寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。
「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」
何も言えなかった。


両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。
顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。


ありがとう、お父さん、お母さん。
二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。
数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。
幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。
本当にありがとうございました。


親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。
特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。


両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。


最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。
あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。
でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。
「私、最後までちゃんと伴走するからね」
その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。
「私の妻はすごいぞ」
今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。
私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。
思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。
けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。
生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。


気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。
最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。
自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。
しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。
深く深く感謝いたしております。


そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。
本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。
2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。
何から何まで、本当に世話になった。
で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。
そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。
心から頼む。


さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。
世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。


じゃ、お先に。

今 敏


涙が止まりませんでした。
ありがとうございました。


※マンガ「海帰線」とアニメ映画「PERFECT BLUE」

2010/08/28

台湾に感じること

ども、長い夏休みもらいました。
平日の5日を休みにして、9連休です。お盆も出社したからね。
もう社会人に戻れる気がしません。でも月曜から客先での打ち合わせあるある!
がんばるよ~。出社の前々日からしてめらんこりっく安井です。こんばんは。


その休みを利用して台湾に行ってきました。臺灣です。
今まで行きたかった場所です。この目で見たかった土地です。
やっと行けた感じがします。楽しかったな。

台湾って、国としては国連から正式に認められてないんです。
中華民国という国ではなくて、中華人民共和国の一部、もしくはアメリカの支配下のままとか、日本のままとか、
いろいろあるみたいですよね。
あれだけ経済発展しているのに地図上は空白っておもしろなと思う。

自分は中国がほんとうに嫌いなんですよ。
今まで何回も言っていると思うけども、中国共産党が嫌いで、
その中国共産党に育てられた漢民族の中国人が嫌いです。
中国本土は何度も見たし、その中国人とも交流があるけども、やっぱり好きになれないな。
もちろんいい人はいるんだけどね。

中国のようで中国でない台湾、ここに行きたかった。
中国の宝物を集めている故宮博物院に行きたかったのが一番やけどね。
蒋介石の中華民国政府が持ち出し、台湾に移った中国の宝物。

その中でも一番見たかったのが王羲之の『快雪時晴帖』の現物。現物でもすでに複製だけど。
北京の故宮博物院では王羲之の『蘭亭序』の写しは見たからね。あれは楽しかった。
『快雪時晴帖』の「神」の印を見たよ。

中国の王様ってあほでさ、自分が所有した有名な宝物には自分の署名とかおすすめ文を書き込むの。
だから、有名なやつほど歴代の王様のイランモノがあるの。
それを見るのがたのしい。それが見たくね、特に王羲之のには多いのよ。
見たかった。見れた。すごいの。書はいのにね、だれの印だよってのばかりでw

あれこれと故宮博物院がたのしかった。
時間がいっぱいでちゃんとみれなかったのが問題なかって、、
また行かないと。

それはそうと、台湾ですよ!
台湾がね、すごいのよ。もう中国そのもの。
人も同じ中国人顔なの。そりゃそうだ同じ漢民族だ。
でもね、中国本土とは全然違う!すごい!順番守るし!信号が赤では車が止まるの!
もうね、感動!民度が高い!って。

でも、鼻に届くニオイは中国だった。
ドブとパクチーと醤油を煮込んだのが混じったようなニオイ。くさいの!

あれこれとあるけども、中国共産党が瓦解して民主化したとする、
するとできあがるが台湾になるんだなって思った。
だからさ、中国共産党は早く無くなるべきだってちゃんと思えた。
中国は早く民主化するべきだ!しなければならない。
わかったよ。あの国はもう終わりだ。
早くなんとかかしないと。

台湾はいい国だ。これを国と認めるべきだと思える。
中国を持ち上げてあれこれ言うのって結局は将来的によくないんじゃないのかな。
もっと台湾をフィーチャーしたらいいのに。そして、中国を持ち上げしすぎないの!
これって大切なんじゃないかな。

自分は台湾に行けてよかった。
あの島の人を見れて良かった。
一緒に行けてよかった。
天気良すぎで疲れたけども。

また行きたいな。
ここには書ききれないけど、中国と台湾との違いをかなり考えてしまった。
たいわんわん。
ここには書ききれないけど、他にもたのしいことたくさんあったんですよ。
そして、日本と台湾と中国、もう一度歴史を学ぼうと思った。
よかったよ。

2010/08/17

放課後ビールタイム

今日の就業中は1日、イエローモンキーのJAMがエンドレスで脳内BGMでした。
乗客に日本人はいませんでした!いませんでした!
そんな夜だもんね、君にあいたくてあいたくてでした。
ということで、こんばんは安井です。お盆も絶賛労働でした!


前に一緒に住んでた友達と、なんとなく音楽しよぜって言い出した。
それも「けいおん!!」見てからとかいう始末。
名称はきっと「放課後ビールタイム」。
名前はもうちょっと変えたいね。

それはそうと、ちょっとばっかしナニカ始めたかった。
普段の生活には無い、ナニカの刺激が欲しいなと思った。
そんな矢先に、前に一緒に住んでた友達の松成さんがキーボード買って練習していると聞いた。
そんなん聞いたらさ、自分もやりたくなるじゃないですか。

学生時代にやろうとして諦めたギター。
三十路を目前に初めて本気出してみようかなと。
思うだけで実行してないけど。

とりあえず、ギブソンですよ!レスポールですよ!ヘリテージチェリーサンバースト!
なんて言いながら本阿弥さんと三条のJUGIAへ行ってきた。
えぇ、目当てのギターはありましたが、値段を考えて、諦めた! 早っ!
誰かからもらったりしようと決めました。お金で挫折。
やる気がその程度ってことですね。ごめんなさい。
まさふみさんからギターの算段はつけたので、次の休みからがんばります。

JUGIAでギターよりも気になったのがありました。

vestaxのVCI-300です。PCDJのコントローラー。
もうね、実機を初めて触ったんだけど、これすごい!ほんと欲しい!
6万くらいですか、そうですか、いいですね。買いますよ!
ギターよりもこっちに興味津々です。

ちょうどね、Let's NoteをSSDに換装したとこだし、これは野外で使えるかもね
っていろいろ想像してました。趣味が増えそうです。
ギターにお金が掛からなくなった分をこっちに回そうと思います。 あれ!?

人生に音楽は必要だと思う。
宗教と音楽ってのも関わりを調べたらかなり面白いだろうと思う。
CDが売れないとか言っているけども、
僕達の生活に音楽は必要不可欠で、無くなったら死ぬ。

いまさらだけど、聞いてばかりの音楽好きから、
少しは音楽作れる人になりたいなと思ってます。
そして一攫千金ですよ!
ポーポーポポポポポポ!

2010/08/10

クラウドってなんだろ

8月も中盤に差し掛かってきましたね。
今年はぜんぜん夏らしいことしてないように思う。
いや、歳を取るにつれてしなくなっていっているような。
やっぱり長期の夏休みは必要だ!働きたくないぜ!こんばんは安井です。


「クラナドは人生」って話しをしようと思います。
違います。「クラウド」ってなんだろなって話しです。

なんでもないんですが、CMで「クラウド」って言葉を聞くようになりました。
うちの会社のグループの会長も年始の挨拶でクラウドクラウド言ってた。
「クラウド」ってなんでしょうね。

簡単にいうなら、必ずしもじゃないが、ネットワーク経由で
サービスが提供され、どこからでも同じシステムが使える。
というとじゃないでしょうか。簡単にし過ぎたけど、そうでしょう。

SaaSとかPaaSとかHaaSとか言われているやつね。
個人的にはどれも同じようなもんだと思っているし、
そういう名称を付けて固定するのはどうかなとも思う。

自分はシステム屋の世界にいるけれども、いきなりクラウドって言葉がでてきたように思う。
なんていうか、アプリケーションの提供の体形とか、デスクトップの統合とか、サーバの仮想化とか、
すでに存在しているが、名称とか分類が大きく曖昧だったのが”クラウド”になったみたいな。

違和感でいっぱいです。
何をいまさらって感じです。
ASPが出てきて流れは決まっただろうにと。

あまり「クラウド」「クラウド」言わないほうがいいと思います。
特に企業のエライサンは。
所詮クラウドって言葉も流行ですよ。Web2.0みたいなもんですよ。
Web2.0なんて恥ずかしくて誰も使わなくなりましたよね。
そんなもんです。

僕らが求めているのはそんな流行のコトバに乗っかることじゃなくて、
何を目指しているのかが知りたいんですよ。
クラウドが~なんて言っているけど、中身はすごいたくさんのことがある。
それのどこに特化して、何を効率化して、どんなサービスが提供できるのか。
そういう具体的なことを言ってくれないと付いて行けないです。

IT業界のうえのほうでナニカやってるエライサン達がいるから、
結局この業界はこのままで停滞しているんだろうなって思います。
個人的にはORACLEにがんばって欲しいんですけどね、やっぱり頭固いわ。
ORACLEについてもまたいろいろ語りたいと思います。

クラウド話しも中途半端だけど寝る~

ケータイから投稿

ケータイのメールからここに書き込めるということでテスト。

いけるなら更新頑張ってみようかな。

2010/08/02

人生達観

朝顔の成長が著しい。
すんごい速度で成長している。朝顔三日会わざれば刮目して見よ みたいな。
花も咲き始めた。だいたい20株くらいかな。 今や家の壁をだいぶ這っている。
生命ってすごいなって感じさせられます。自分なんて、、、どうも安井です。こんばんに。


こないだ友達に会って言われたコトバ
「安井さん、最近"がんばる"とか"将来の為に云々"とか前向きな言葉言わなくなった」
って。

たしかに言わなくなりましたね。
人生なにかこうあきらめました。
前向きに。

いつまでも肩肘張って、俺は出来る子!って思い込むのやめた。
年収も気にしない。
仕事がすべてじゃない。
できないんだから必要以上がんばらない。
人生なるようになるし、ならないならやる。
食うだけなら自分で農業しらたいい。
幸せって生きること。

そんなこと思うようになってきた。
あれこれしなければならない!って思うのやめた。
気楽にいこう。人生楽しくいこう。
それだけ。

インドに行ってからだいぶ考え方が変わった。
ガンジス川行ってからかなぁ。


2009年の年末に無性にガンジス川が見たくてインドに行った。
ガンジスが流れる聖地であるバラナシに行った。
1人で予定無しで行ったのので、何時間も居た。

この街、というか国、とにかく人が多い。ゴキブリの巣みたい。でもみんな生きている。
小学生くらいの子どもが平日の昼間に平気で働いている。
じじいが平気で詐欺行為してくる。
みんな生きている。

そんな街に流れる川べりでは数多くの火葬場がある。
毎日数千の死体が焼かれている。普通に焼かれている。見た見た。
死期が近い人は、死ぬために各地から訪れて、横の施設で死を待っている。
それを見るために数多くの観光客が訪れる。
それをカモるために数多くの商売人が群がる。

観光客から金をぼったくろうと躍起するインド人の横で、死を待つ人がいる。
むしろ、死んでいて焼かれるのを待つ人がいる。
そんな横で近所の子ども達が遊んでいる。
観光客はガンジス川に浮かぶ船でしゃいでいる。
傍らでおばさんたちが洗濯物洗っている。
沐浴をする人達がいる。
それを見る僕達観光客がいる。
僕等をカモにしようと多くの詐欺師が声を掛けてくる。
とにかく見渡す限りにインド人がいる。

そんな土地。
そんな風景。

あれを見てから、何か価値観が変わった。
人間って生物なんだって。生きていくのってそういうことなんだって。
がんばるのやめようって思った。

言葉にできてないけど、人間の本質がすべて詰まっているのを見た。
人間って生きているんだなって思えた。
ただそれだけ。

ほんとただそれだけだった。
日本のこの社会でがむしゃらにがんばって生きているのがあほらしくなった。

よく、インドに行ったら人生観変わるって言われるけども、
本当に変わるんだな~って今さらながら思えた。

人生なんてちんけなもんです。