2009/04/01

自由って何だろうかな

桜がすごくいい感じで咲き出した。
駅からの帰りにきょろきょろと見渡して桜を楽しんでいる。
学生のころに酔っ払って円山公園の桜の木を折って警察に連衡された黒歴史思い出しながらこんばんは、飲んでも飲まれたらだめです安井です。


自由ってなんだろなと思った。特に理由はないけど、自由ってなんだろって頭にあった。
自分が通ってた高校の校訓が「自由と規律」、大学の教育理念が「自由自治」だった。

自分が通ってきた道の中で「自由」という言葉が顕著に出てきていた。
個人的に、自由というのはいつでも「責任」が付き纏っていた。
好きなことをしてもいいが、それは自分が選んだこと、全て自分が背負うことになると思っていた。
自由ってそういうもんでしょう。
なんとなく、自由の履き違えをしている人が多いなと思う最近だな。

関係ないけど、坂口尚の「石の花」というマンガにこんな言葉がでてくるのを思い出したので抜粋。
ナチの将校とユーゴの二重スパイの会話で、ナチの将校がナチの存在意義と自由について言ってたこと。

「人間は思想(イデオロギー)を発明し、宗教をも発明した。
しかし、真の平和はやってこない、むしろ争いの種になっている。
思想は思想とぶつかり、一つの宗教さえ二つにわれ宗派を生み争う、同じ平和を求めてこの始末だ。
なぜなら、人間は公平に客観的に判断することなど到底できない具合になっているからだ。
人間は伝統やら習慣の衣を意識しようがしまいが着せられている。
ある家で生まれ、ある町で育ち、ある国で働き、ある人に出会い、ある本と語り・・・
いつもある条件の中で生きている。
いうなれば、この世の中は無数の偏見がせめぎ合っている海原だ。
渦巻き、逆巻き、波は激しさを増しこそすれ、静まりはしまい。

話し合いから平和な世界国家を実現できるわけはないんだ。
実現方法はだだ一つ。
ウムをいわせぬ巨きな力こそが統一と強調を生み、維持できるのだ!
(中略)
神でもない人間が勝手にものさしをつくっているのは民主主義の中にもいたるところにある。
法律もそうだ。裁判所では人間が人間を裁いている。
議会はどうだ。過半数を取り、少数意見を切り捨てる。数の暴力だ!
(中略)
民衆は抽象的な平和論よりも、現実に足りないものを補う力を求める。
女が弱者を支配するよりは強者につくのを好むように、
民衆も自由を受け入れるより 支配者を好む

生まれたとき備わっていた自由な心を
不安と混乱の世の中で待ち続けるというのはやっかいなものだ
絶え間なくつきつけられる問いに、
何が善で、何が悪かを自由な心で自ら選ばなければならないというのは重荷だ。
しかし、生まれたときから何色にも染まっていなかった自由な心は、
次つぎにある条件という衣を着せられていくんだからな

世の中はますます複雑になっているし、
いくつもの思想(イデオロギー)の道ができ、
いくつもの宗教の花が咲き、
いくつもの神が手招きをする。

そのひとつひとつを自由な心で選ぶとうのはとてつもないエネルギーがいる。
そんな自由はいっそ誰かに預けてしまった方が楽なのだ。
ある国家に。ある宗教に。ある伝統に。ある習慣に。
自ら問い、自ら悩み、自ら選ぶ自由より、
ある権威に従ってしまった方が楽なのだ。

やがて、どこまでが他人の不正で、どこからが自分の不正なのかもわからなくなる。
その方が自分を責めずにすむし、心安らかに暮らせるじゃないか。
(中略)
たとえ反抗を試みても、この複雑で前色だらけの世の中を相手じゃ
自らの非力を思い知らされるだけだ。

どうにか仲間らしき人間達が集まっている場所を見つけ駆けよると、
やはり不消化の塊をかかえている人間ばかりだ。
なじったところで、その人間達と自分は、本来少しも違いは無いのだから、
鏡の中の自分を責めいていることになってしまう。

やがて疲れあきらめ
人間は群れから離れるよりも、群れの中で自分を消す方が安心できると気付く。
人間は自由よりもナニカの奴隷でいることの方が、どんだけほっとするのかしれないのにだ。
(中略)
人間はこのうつろい易い過ぎ去り行く世界で唯一絶対のものを求めたいのだ。
自分を支えてくれる確かなささえをな・・・

(ここで未来の希望はあると二重スパイが言う)

きみなら自由の重さに耐えぬけていけただろう・・・
(中略)
自由を捨てたがっているのはその多くの人間達じゃないか
(後略)


といった内容。
長くなったけど、これを読んで感動した。

自由と人間の弱さなんかを考えさせられた。
自由ってなんだろな。

ま、上の文章が書きたかっただけのような内容でした。

0 件のコメント: